錯視が生んだ神話 「エースコンバット04」がメビウス1という怪物を生み出したプロセス

エースコンバットシリーズが世に送り出されてはや24年、最新作のエースコンバット7は今年2019年1月18日に発売されたが、わたくしにとって金字塔となるタイトル、それは何を置いても

 

ACECOMBAT04 SHATTERED SKIES

 

エースコンバット04 シャッタードスカイ

エースコンバット04 シャッタードスカイ

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: ナムコ
  • 発売日: 2001/09/13
  • メディア: Video Game
 

 

これに尽きる。

 

世間ではシリーズの他作品を至上とする意見も多々あるが、わたくしが04を最良のエースコンバットだと判ずるのには、この作品だけが持っている異質性に着目し、惹かれたという理由がある。

というわけで、以前Twitterで話したのとほぼ同一の内容にはなってしまうが、その異質性を語っていきたいと思う。

 

 

エースコンバット04はシリーズの中で見ても特異点だと思う。その理由は、ストーリーテリングにおける根幹にある考え方、当時のディレクター、一柳宏之氏の言う所の「人の意識が存在する世界」にある。なお今回は、ゲーム性に関する記述は一切しない。

 

エースコンバット04の見せ方の大原則、それは「人の意識が存在する世界」である。
これは何なのかというと、彼の発言をまとめた以下のリンクを読んでいただくこととして、
要約すると、「登場するNPC達が、自身の意識を持って行動している、発言しているかのように錯覚できる世界感の演出」である。
 
一方、近年のゲーム、アニメーションに氾濫している、わたくしを辟易させている表現がある。それは言うなれば、「人の意識でできている世界」である。
これはわたくしの造語なのでこの場で説明せなばならない。
人の意識でできている世界とは、
 
「観察する人間の認知によって構築される世界」
である。
 
この二つは似ているようで全く違う。
「人の意識が存在する世界」とは、簡単に言うとこの世界そのものである。誰かの視点を借りることなく、転がっている事実が淡々と描写される。何か特定の存在がゲームの側からフォーカスして提示されることは、ない。
一方で「人の意識でできている世界」とは、人間が観察していることでできる、人間の脳内で再構築された世界である。誰かの脳内で再生されている以上、捉え方は自分とは違うかもしれず、また特定の何かに向けられた目線が強調して提示される。
誰かの脳によって再構築した世界は、同様の考え方をできる人間を共感させることはできる。
だが、すべての人間の考え方が同等ではない。そういう人を説得させることはできない。この脳の違いによる相互理解の限界に関する話は、ある先生がすでに本で説明している。養老孟司先生の「バカの壁」である。

 

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

  • 作者:養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/04/10
  • メディア: 新書
 

 

「人の意識が存在する世界」を構築するのは困難だ。なにせ我々人間は、意識と言う名のフィルターをかけてしか世界を観測することができないのだから。だがそれを乗り越え、あくまで客観的に事実が転がっている世界が表現できたとき、ゲームの画面には真実味が出現する。
 
そもそもエースコンバット04において、真実味を持たせなければならない理由とは何だったのか。
それは「PS2の性能が実現した、今までとは一線を画するリアルな表現」が原因であろう。
今となっては笑われるかもしれないが、PS2の時代から、すでに「これ実写だわ」という錯覚は存在していた。

(あくまで個人的な感想だが、初代プレイステーションの頃には「実写だわ」感覚はあまりなかったように感じる)
 
リアルなグラフィックで表現される世界観が、どこか白々しい恣意的な選別を経たものであっては矛盾が生じる。
こうしてできた「人の意識が存在する世界」では、矛盾するはずのものが併存する。憎しみと親愛、昂揚と静謐、客観と主観。「人の意識でできた世界」では排除されるそれは、「現実に転がっている以上しょうがないじゃないか」という理由によって併存し続ける。
だれか一人の頭の中だけで考えられた世界ではないが故に、AC04プロジェクトが描く「メビウス1の英雄譚」と、片渕須直氏の綴る「黄色の13と戦災孤児の少年の悲哀」は、ひとつの世界に存在するものとして矛盾なく受け入れられる。ここからさらにエースコンバット04の宿業は広がりを見せる。
プレイヤーは「メビウス1」というキャラクターを操作するが、当初の思惑はさておき、メビウス1=プレイヤー、とはならない。先ほど述べたように、物語はメビウス1という観察者の意識を通して見た世界としては提示されていないからである。強いて言うなら、プレーヤーはメビウス1「の役を演ずる人間」として、このゲームを操作する。
一方で、サイドストーリーには僅かにも感情移入の余地が残されている。少年が書いた手紙であるこのサイドストーリーには、少年の視点がほんの僅かに感じられる。プレイヤーは黄色の13が魂を持った人間であり、崇高な精神を持った者だと認識する。だがその13を、最後には撃墜せねばならない。撃墜せねばならない理由は単純明快で、そうしなければゲームが進行しないからだ。かくして、プレイヤーという神の手は「メビウス1」という駒で、崇高な「13」の命を奪う。 ゲームという主体を持って行うものであるが故に、プレイヤーは昂揚感と虚無感を同時に味わうことになる。
 
黄色の13の魂を見てしまったプレイヤーが、メビウス1と言う手法で彼を殺す。黄色の13の物語を見るのはあくまでプレイヤーであり、メビウス1はプレイヤーの見た物語を全て認知しているわけではない。サイドストーリーの物語は、メビウス1が大陸戦争の期間中にリアルタイムで知りうる情報ではないからである。しかし、プレイヤーメビウス1というプレイヤーキャラクターを操作し、そしてメビウス1の視点を経由せずに知った黄色の13の物語を見ることで、空中で戦ったこの二人の間に「因縁(あるいは宿命)」を錯覚する。
そして、あくまでプレイヤーがサイドストーリーを通じて黄色の13に感情移入したにも関わらず、メビウス1が黄色の13に抱く憧憬さえ錯覚することができる。この思い込みは決して悲劇的ではない。何もキャラクター性が提示されないメビウス1は、しかしあのときメビウス1の役を演じたプレイヤーたちに独立した人格を認知されていく。メビウス1最強神話の誕生である。