エースコンバット04の、もう少し細かな演出面に関する話もする。「生々しさ」と「あきらめの悪さ」に関してである。
演出面の生々しさというものを、04には感じる。何がって、あらゆる事象の起結の狭間にある、人間の活動がだ。
大陸戦争については、開戦に至るまでの経緯がAC04webにて仔細に説明されている。
www.acecombat.jp
これまでの、例えばエースコンバット2あたりの導入部でやるなら、 「隕石の落着によりユージア大陸は大混乱に陥り、その隙をついてエルジアが侵攻を開始してきた」くらいの下りで説明が成り立っていた(エースコンバット3辺りになるとそうもいかなくなるが)。
04はそうはいかない。 隕石が落ちる前から、西の大国とそれ以外の国は冷戦(より半歩踏み込んだ対立)状態にあり、それが隕石そのもの、ではなく、隕石落着によって生じた環境の変化によって、決定的にバランスを崩していく。
大国である、という理由を盾に、発生した難民を半ば経済的戦争の道具として押し付けられたエルジアでは、当然ながら世論に暴風が吹き荒れる。彼ら自身も被災者であるにも関わらず、東の小国たちは自国の余力を削ぐために難民を押し付けてくるのだ。
難民問題が世界情勢に危機を及ぼすというのは、2001年当時であれば荒唐無稽だと受け取る人間もいたかもしれない。
しかし、我々は見てしまった。2015年、中東やアフリカから流れ込んだ100万人の難民が、欧州に多大な混乱をもたらしたことを。
もし、彼らの間に対立関係があったなら。難民の流れを、悪意を持ってコントロールしようとした人間がいたのならば。受け入れる側の人間も、また困苦の災禍の中にあったとしたならば。
エースコンバット04で描かれた21世紀のユージア大陸は、「道を違えてしまった2015年のヨーロッパ亜大陸」だったのかもしれない。
かくしてエルジア国民の反東側諸国感情は頂点を迎え、大陸戦争は勃発する。ファンタジー的に言えば「ストーンヘンジの攻撃力を狙って侵攻してきた」という設定は、04的にはあくまで目的ではなく手段である。
冷静になってみれば、大陸戦争に於けるストーンヘンジの存在は、現実でいうならば「地の利」くらいのものであり、狙うというよりは活用するものである。 「地の利を狙って侵攻してきた」というのが、果たして物語として成立しうるのか。そうでないのが04的である。
ということで纏めると、 「隕石落着によって発生した難民問題が政争に使われ、それに反発したエルジアが開戦によって最終解決を図った」という経緯がAC04webで語られる。
つまり戦争勃発の最大の原因は、
ユリシーズでも
ストーンヘンジでもなく、 「経済恐慌と難民問題」 という、実に現実に転がっているに違いない生々しいものであったのだ。
経済恐慌と難民問題から始まるファンタ
ジーがあってたまるか。これはもう、もうひとつの現実である。
もうひとつ、わたくしが04の演出の中で、最も生々しいと思っているものを上げる。 メ
ガリス攻略戦のブリーフィングで、それは読み上げられる。
「必ず生き残れ。戦後には英雄が必要なのだ」
聞けば聞くほど、この言葉には身震いを禁じ得ない。感情からではなく、戦後復興のために象徴的存在が必要だから、
メビウス1は死ぬなと言われる。 ここではすでに、
メビウス1を取り巻く世界はファンタ
ジーではない。
ゲームが終わっても、彼らは戦後のユージア大陸で生き続け、大陸復興に尽力して生きねばならないのだ。ゲームの画面の向こうの人間が生きねばならないという事実を、我々は知って(想像して)しまう。
エースコンバット04とは、額縁に収められた絵画などではない。窓だ。 それを通して、画面の向こうに広がるもうひとつの現実に広がる事態を覗いてしまう、窓である。
生々しさの最後に挙げるべきは、慎重に選び抜かれたセリフ回しである。
わたくしはまるきり英語に不自由なのだが、どうも04の英語無線は、その声色やら台詞回しが「棒読み」らしいのだ。それは華々しさに欠けるという事でもある。
しかし思う。戦場に放り込まれた人間たちが、持って回った言い回しや、華々しいフレーズを振り回すだろうか。
もちろん、いかなる環境においても軽口を絶やさない人間というのもいるし、そのような国民性だとして演出してしまう方法もあるだろう。
しかし、この作品を取り囲む大きな雰囲気は、「切実さ」である。
エースコンバット04の無線通信は、その内容と言い回しの両面で「戦闘中の業務連絡」というスタンスに徹している。
不思議なことに、英語がまるきりわからないわたくしにも、この喋り方がどんな趣なのか、ある程度伝わってしまうのだ。
そして残念なことに、5は04よりも確実に華々しく喋っている。この華々しさの正体が一体なんなのか。それは「現場での意思疎通ではなく、画面の外のプレイヤーに向けた時に見栄えのする台詞選び」ではないかと思っている。この観点で選ばれた台詞回しを使う人物は、「あちら側の世界で生きる人間」ではなく、「プレイヤーに見られるために存在するキャ
ラクター」になってしまっている。
このことは、サイドストーリーにおいてより徹底されている。
片渕須直氏の連載、「β運動の岸辺で」を見れば、その辺で氏がいかに苦戦したかが綴られている。
抑圧された戦時の記憶を、いくら手紙で伝えるとはいえ、艶やかに彩られた流麗な言語で伝えるであろうか。
アゴタ・クリストフの「白い文体」を規範に組み上げられた彼の手紙は、戦争を語るのに最もふさわしい最小限の要素で綴られているのである。抑圧された人間のうめき声すら、その中に感じる。
「劇中で描かれたような事態が現実のものになったら、こういう過程を得るに違いないだろう」という道筋を理路整然と辿っているあたりに、04の生々しさは集約されている。これは、「人の意識が存在する世界」をより強固に確立させているに違いない。
ここまで書いた所で、04には冷静に考えたとき、あまりにも嘘くさい部分が存在する。 登場人物(ここでは名前が出る人間だけに特定しない、窓の向こう側にいる人間すべて)のあきらめが、あまりにも悪すぎるのだ。大陸の端から端にいる人間、ほとんどすべてが。
だが冷静に考えると、ここまで書いた「あきらめの悪さ」以外の要素だけで04を総括すると、「不運なきっかけで対立を加速させた2つの国家群が凄惨な争いを繰り広げました」という話になってしまう。 「
メビウス1の英雄譚」という部分があるじゃないか、と言う人もいるが、極論してしまうと、
メビウス1は誰も幸せにしていない。
メビウス1の軌跡は、ファンタ
ジーとしては
雄大だが、現実の舞台としては単なる1戦果である。あまりに現実に寄り添いすぎた04の物語性において、それだけでは不十分なのである。
でも、04の物語は不遇ではあるだろうが、不幸ではない。それは、不遇ななかで、登場人物が誰もあきらめていないからである。 彼らは無線の中で、「もうダメだ」などとは言わない。「もうダメだ」と言い出すのは、機体に火がついて操縦
不能になってからだ。
そして同様に、サイドストーリーの少年もあきらめてはいない。(あきらめない、というとこは、
片渕須直氏がいう「非業」の対岸にある「
自己実現」とは少し違うことに注意する必要がある)
彼は身投げなどしない。家族の仇に銃を向け、突きつけるべき言葉を突きつける準備を進めていた。いつの間にか黄色中隊に家族の居心地を見いだしても、そのことで自分を無価値な裏切り者だとは断じない。 (ただし、少年の「あきらめの悪さ」は、のちに黄色の13との決定的な決別を招くことになる)
ついに少年は、酒場の娘と共に、一度は家族の居心地を見いだした黄色の13を追いかけ、彼の望外の望みであった「対等の敵との戦い」を見届けるに至る。
不幸そのものである黄色の13の結末の中に、僅かばかりの輝きを彼は見いだすのである。
常識的に考えて、もはやノースポイントを残して支配地域を失ってしまった
ISAFは降伏勧告を受諾する以外の選択肢がないだろう。 エルジアはエルジアで、最終防衛線を破られ、首都決戦などをやらかす前に降伏するのが筋のはずだ。 それが、メ
ガリスを発動させるという暴挙に出てまで、あきらめない。
04を「あきらめの悪さ」に着目してもう一度表現すると、 「人の叡智と欲望が衝突し、一度は叡智が敗北する。それでも叡智が存在することを信じ、生き延びようとする人間たちの物語」 ということになる。
リアリズムに根ざした
エースコンバット04が、至上の人間賛歌となって輝くのである。